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アーヘン大聖堂とその歴史-カール大帝が残した遺産

カール大帝が愛した街でありフランク王国の首都であったアーヘン。その豊かな歴史と文化、そして温泉の魅力は、現代でも訪れる人々を惹きつけます。なぜアーヘンがフランク王国の首都になったのか、そして象徴的なアーヘン大聖堂はどのように作られたのか、アーヘンの歴史とともにご紹介します。

カール大帝とフランク王国

フランク王国は、現在の西ヨーロッパにあたる地域で、カール大帝が統治した強大な王国です。もともとは小さな領土から始まりましたが少しずつ領土を拡大し、カール大帝の時代には、フランス、ドイツ、イタリア北部、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロベニアまでを統治する広大な国となりました。

3~4世紀、古代ローマ人はライン川中流域に住んでいたゲルマン人の一派を「フランク人」と呼びました。フランク人は戦闘能力が高く、徐々にローマ軍の兵士や将軍としての地位を得て、やがて独立した王国を築き上げました。フランク族には分割相続の習慣があり、王が亡くなるとその息子たちに領土が平等に分割されました。このため、相続争いが頻発し、暗殺や幽閉といった事件が多く、王国はしばしば分裂の危機に直面しました。そのような歴史の中で、751年にピピン3世がフランク王国の国王に即位します。このピピン3世が、後にカール大帝になるカール1世の父です。

大帝への道

8世紀、フランク王国のピピン3世(ピピン国王)が亡くなると、彼の2人の息子、カール1世(後のカール大帝)とカールマン1世が領土を分け合いました。しかし、カールマン1世が早々に亡くなったため、残ったカール1世が全領土を統治することとなりました。カール1世はその強さ、知性、そして人望によって領土を拡大し、次第にローマ皇帝すら無視できないほどの強大な力を持つようになりました。

そしてカール1世は、800年にローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」の称号を授けられ、神聖ローマ帝国の初代皇帝となりました(*)。これは、彼の権力がローマ教会によって正式に認められたことを意味します。そして、彼の支配下でフランク王国はヨーロッパの大国へと成長しました。

フランク王国
カール大帝が治めていた王国
神聖ローマ帝国
カール大帝がローマ教皇から皇帝の称号を授けられることによって成立した広域的な帝国

首都アーヘン

カール大帝は、温泉が湧き出て地理的にもフランク王国の中心に位置するアーヘンを大変気に入っていました。そして、頻繁にアーヘンに滞在するようになり、ここアーヘンで政治を行うようになりました。現代のように「首都」という明確な概念は存在しませんでしたが、アーヘンはフランク王国の政治の中心地として機能し、事実上の「首都」とも言える場所となったのです。

アーヘン大聖堂

786年、カール大帝は、ローマやラヴェンナにあった聖堂や住居から建築資材や美術品をアーヘンに持ち込み、現在のアーヘン大聖堂から旧市庁舎(Rathaus)間に、宮廷礼拝堂、王宮、学校、浴堂、軍事設備などを備えた壮麗な宮殿を建設しました。この宮廷礼拝堂が、ドイツの世界遺産第一号となった「アーヘン大聖堂」です。北部ヨーロッパ最古の大聖堂であり、その豪華絢爛な内装は、当時としては非常に異例で他の教会とは一線を画していました。

カール大帝は、宮殿で教会議会などを開き、アーヘンをフランク王国、そして後の神聖ローマ帝国の政治の中心地としました。

戴冠式

アーヘン大聖堂では、936年のオットー1世から1531年のフェルディナント1世までの約600年間にわたり、神聖ローマ帝国の皇帝30人と女王12人の戴冠式が行われました。戴冠式の後は祝賀会が開催され、当初はカール大帝の宮殿の一部を使用していましたが、14世紀にその場所にゴシック様式の市庁舎(Rathaus)が建てられ、「皇帝の間(Kaisersaal)」が引き続き祝賀会に使用されました。

聖遺物と巡礼地アーヘン

カール大帝は、アーヘン大聖堂に多くの貴重な聖遺物を収集しました。特に有名なのは、「聖母マリアのマント」「幼子イエスの産着」「イエスが十字架にかけられた際に腰に巻いていた布」「洗礼者ヨハネの首を包んだ布」の4つです。これらの聖遺物がアーヘン大聖堂に保管され、14世紀には定期的に公開されるようになったため、毎年多くの巡礼者がアーヘンを訪れるようになりました。これによりアーヘンは、ローマやサンティアゴ・デ・コンポステーラと並ぶヨーロッパの主要な巡礼地となったのです。

アーヘンへの巡礼は、単なる宗教的な儀式にとどまらず、経済的にも大きな影響を与えました。巡礼者向けに売られた名物のプリンテンは、この時から売られ始めました。聖人や兵士の形をしており、何種類ものスパイスの効いた焼き菓子で、長期保存の効く食べ物でした。現在でも地元の人や観光客に人気があり、アーヘンの代表的な特産品です。

カール大帝の金の棺(Karlsschrein)

カール大帝は814年1月28日にアーヘンで亡くなり、その後、宮殿教会(現在のアーヘン大聖堂)の八角形の礼拝堂内に埋葬されました。1215年、カール大帝への崇敬の念と、神聖ローマ帝国の権威を示す象徴として、豪華な金細工と彫刻で飾られた棺が制作されました。この金の棺は現在、アーヘン大聖堂内の高壇に安置されています。

ゴシック様式の増築と「ガラスの礼拝堂」

戴冠式や巡礼の盛大な祝賀行事を支えるため、14世紀後半からアーヘン大聖堂の増築が始まりました。特に1370年頃から1414年にかけて、ゴシック様式の聖歌隊席(現在のガラスの礼拝堂)が建設されました。この建築は、大聖堂を訪れる巡礼者やカール大帝の信仰を称える目的で行われたものです。

この聖歌隊席は、長さ25メートル、幅13メートル、高さ32メートルという壮大な規模を持ち、外壁を覆うステンドグラスは高さ25.55メートルに達します。このガラス面の総面積は1000平方メートル以上で、非常に印象的な光景を作り出しています。このため、聖歌隊席は「アーヘンのガラスの家」とも呼ばれ、ヨーロッパのゴシック建築を代表する作品の1つとされています。

1656年、アーヘン市全体を襲った大火災により、大聖堂の屋根や塔が破損しました。その後、修復作業が行われましたが、経済的な制約により完全な修復は実現せず、その後も増築や改築を経て現在の形に至っています。

アーヘン大聖堂は、カール大帝が8世紀末に建設を始めて以来、歴史を通じてさまざまな建築様式を取り入れてきました。それぞれの時代ごとの特徴は以下の通りです。

カロリング朝ルネサンス様式(8世紀末~9世紀初頭)

カール大帝がローマ帝国の伝統を復興する意図を持ち、自身の権威を象徴するために建設した様式です。ビザンチン建築から影響を受け、八角形の集中式平面と大理石を用いた内装が特徴的です。

ロマネスク様式(10~12世紀)

この時期、大聖堂は巡礼地としての役割が強化されました。巡礼者を迎えるための空間が拡張され、堅牢で荘厳な建築スタイルが採用されました。

ゴシック様式(14世紀~15世紀)

大聖堂が巡礼地としての重要性を増したことから、壮麗な装飾が施されました。特に、聖歌隊席(ガラスの礼拝堂)は壮大で、「アーヘンのガラスの家」とも称されています。

バロック様式(18世紀)

豪華な金箔装飾や絵画が内部空間に追加されました。この装飾は、大聖堂が神聖ローマ帝国の象徴としての役割を果たしていたことを反映しています。

旧市庁舎(Rathaus)

14世紀、カール大帝の王宮の一部に、ゴシック様式の市庁舎(Rathaus)が建てられました。カール大帝の時代(8世紀)に建設されたグラヌスの塔は、現在も旧市庁舎の東側にその姿を留めています。戴冠式で使用された「皇帝の間(Kaisersaal)」は、現在、大学教授のパーティーや学術イベント、公的な式典などに利用されており、一般人の見学も可能です。

また、ドイツでも有名なアーヘンのクリスマスマーケット(Weihnachtsmarkt)は、旧市庁舎前からアーヘン大聖堂にかけて開催され、所狭しとお店が並びます。その時期にしか味わえないグリューワインやキンダープンシュを楽しみながら、アーヘン大聖堂や旧市庁舎の美しい光景を堪能することができます。

エリーゼンブルネン

アーヘン大聖堂前にあるエリーゼンブルネンは、ローマ時代から温泉が湧き出ることで知られており、その治癒力が高く評価されていました。カール大帝の時代には、この地域に小さな教会があったとも言われ、中世には修道院が存在していたとされています。

1822年からエリーゼンブルネンの建設が始まり、古代の中世城壁(バルバロッサの壁)の遺跡を一部取り入れながら、新たな施設が作られました。1827年にはエリーゼンブルネンホールが完成し、現在では白い円柱のホールと、2つの温泉(手洗い用)が存在しています。

カール大帝が築いたヨーロッパの基盤

カール大帝の孫のシャルル2世(シャルル1世とも呼ばれます)は、フランク王国の西側を支配し、西フランク王国を統一。この王国が現代のフランスの基礎となりました。もう一人の孫、ルートヴィヒ2世は、バイエルンを支配し、東フランク王国を形成。これが現代のドイツへと繋がっていきます。

カール大帝の統治と遺産は、単なる王国の枠を超え、ヨーロッパの政治、宗教、文化の基礎を築き上げました。アーヘンは、その壮麗な歴史を今に伝える街であり、かつてのフランク王国の栄光を感じさせる重要な場所です。

まとめ

アーヘンは、カール大帝が愛しフランク王国の中心地として歴史に名を刻んだ街です。その豊かな温泉文化や壮大なアーヘン大聖堂は、現代の私たちにも大きな感動を与えています。カール大帝がこの地を政治の拠点として選び、後に神聖ローマ帝国の始まりの地ともなったアーヘンは、訪れる人々に時を超えた感動を与えています。

参考文献

文:レンガ

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