メニューを開く
LIFE IN GERMANY
ドイツ生活情報 / アーヘン / PICKUP

アーヘン大聖堂とその歴史-カール大帝が残した遺産

アーヘン大聖堂は、オランダとベルギーの国境近く、ドイツ最西端の都市「アーヘン」にあります。フランク王であり神聖ローマ帝国の初代皇帝でもあったカール大帝が、796年から805年にかけて建設し、歴史とともに増改築を重ね、多様な建築様式が融合した独自の美しさを誇ります。北ヨーロッパで最古の聖堂であり、1987年には、ドイツで初めてユネスコ世界遺産に登録されました。

アーヘン大聖堂を語るうえで欠かせないのが、カール大帝の存在です。カール大帝はアーヘンをフランク王国の重要な拠点とし、政治と文化の中心地へと発展させました。また、アーヘンは古代ローマ時代から温泉地として知られており、カール大帝の時代にもその魅力を維持し続けていました。

アーヘン大聖堂

アーヘン大聖堂の起源は、神聖ローマ帝国の初代皇帝カール大帝(シャルルマーニュ)が建設した宮廷礼拝堂(パラティーノ礼拝堂)に遡ります。カール大帝は、フランク王国の中心に位置し、温泉地としても知られる豊かな土地アーヘンを大変気に入りました。そして、アーヘンをフランク王国の政治と文化の中心地とするため、ローマやラヴェンナにあった教会や住居から建築資材や美術品をアーヘンに運び込み、794年、王宮、学校、浴堂(温泉施設)、図書館、軍事施設、宮廷礼拝堂などを備えた壮大な宮殿の建設を開始しました。信仰心の厚かったカール大帝は、宮殿内に建てられた宮廷礼拝堂を宗教的拠点と位置づけ、これを通じてキリスト教文化の広がりを図るとともに、帝国の統治と権威を象徴する施設としました。

宮殿の詳細ついては、以下の動画をご覧ください。
カール大帝が建設した宮殿
宮殿のアニメーション

宮廷礼拝堂(パラティーノ礼拝堂)

アーヘン大聖堂の起源である宮廷礼拝堂は、当時の最高の建築技術と芸術が詰め込まれています。特に、八角形の中央部(オクタゴン)は礼拝堂の象徴として知られ、現在の大聖堂の基盤となっています。

この八角形の構造には、キリスト教の象徴的な意味が込められています。「8」という数字は「復活と永遠の命」を表し、宗教的なメッセージを建築に反映させたものでした。また、内部には「10」という数字も多く取り入れられており、設計には深い宗教的意図が込められていました。

アーヘン大聖堂八角形の回廊
八角形の回廊

八角形の礼拝堂の上階には部屋と回廊が設けられ、その中心にカール大帝専用の王座が配置されていました。この王座は、礼拝堂全体を見渡せる高い位置にあり、皇帝が礼拝を行いながら自らの権威を示すための象徴的な場所でした。この王座は、現在もアーヘン大聖堂に保存されており、カール大帝の時代の歴史とその皇帝としての威厳を今に伝える貴重な遺産です。

建築デザインには、ビザンチン様式の影響が色濃く見られます。北イタリアのラヴェンナにあるサン・ヴィターレ大聖堂や、イスタンブールにあるコンスタンティノープルのリトル・アヤソフィアをモデルにしており、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)とのつながりを示しています。

さらに、宮廷礼拝堂は宮殿と直接結ばれるように設計されていました。この構造により、礼拝の場と政治の場が一体化し、カール大帝の統治と信仰が結びつけられていたことがわかります。

アーヘン大聖堂入り口
アーヘン大聖堂入り口

現在のアーヘン大聖堂は、時代とともに増改築が行われ、ゴシック様式のガラスの礼拝堂や他の後世の建築要素とともに、宮廷礼拝堂を中心に形作られています。それぞれの建築部分は、建設当時のスタイルを反映し、複数の時代の文化と技術が融合した独特の姿を見せています。

複数の建築様式が融合したアーヘン大聖堂

戴冠式

アーヘン大聖堂では、936年のオットー1世から1531年のフェルディナント1世までの約600年間にわたり、神聖ローマ帝国の皇帝30人と女王12人の戴冠式が行われました。戴冠式の後は祝賀会が開催され、当初はカール大帝の宮殿の一部を使用していましたが、14世紀にその場所にゴシック様式の市庁舎(Rathaus)が建てられ、「皇帝の間(Kaisersaal)」が引き続き祝賀会に使用されました。

聖遺物と巡礼地アーヘン

カール大帝は、アーヘン大聖堂に多くの貴重な聖遺物を収集しました。特に有名なのは、「聖母マリアのマント」「幼子イエスの産着」「イエスが十字架にかけられた際に腰に巻いていた布」「洗礼者ヨハネの首を包んだ布」の4つです。これらの聖遺物がアーヘン大聖堂に保管され、14世紀には定期的に公開されるようになったため、毎年多くの巡礼者がアーヘンを訪れるようになりました。これによりアーヘンは、ローマやサンティアゴ・デ・コンポステーラと並ぶヨーロッパの主要な巡礼地となったのです。

アーヘンへの巡礼は、単なる宗教的な儀式にとどまらず、経済的にも大きな影響を与えました。巡礼者向けに売られた名物のプリンテンは、この時から売られ始めました。聖人や兵士の形をしており、何種類ものスパイスの効いた焼き菓子で、長期保存の効く食べ物でした。現在でも地元の人や観光客に人気があり、アーヘンの代表的な特産品です。

カール大帝の金の棺

カール大帝は814年1月28日にアーヘンで亡くなり、その後、宮殿教会の八角形の礼拝堂内に埋葬されました。1215年、カール大帝への崇敬の念と、神聖ローマ帝国の権威を示す象徴として、豪華な金細工と彫刻で飾られた棺が制作されました。この金の棺は現在、アーヘン大聖堂内の高壇に安置されています。

ガラスの礼拝堂

戴冠式や巡礼の盛大な祝賀行事を支えるため、14世紀後半からアーヘン大聖堂の増築が始まりました。特に1370年頃から1414年にかけて、ゴシック様式の聖歌隊席(現在のガラスの礼拝堂)が建設されました。この建築は、大聖堂を訪れる巡礼者やカール大帝の信仰を称える目的で行われたものです。

この聖歌隊席は、長さ25メートル、幅13メートル、高さ32メートルという壮大な規模を持ち、外壁を覆うステンドグラスは高さ25.55メートルに達します。このガラス面の総面積は1000平方メートル以上で、非常に印象的な光景を作り出しています。このため、聖歌隊席は「アーヘンのガラスの家」とも呼ばれ、ヨーロッパのゴシック建築を代表する作品の1つとされています。

1656年、アーヘン市全体を襲った大火災により、大聖堂の屋根や塔が破損しました。その後、修復作業が行われましたが、経済的な制約により完全な修復は実現せず、その後も増築や改築を経て現在の形に至っています。

アーヘン大聖堂は、カール大帝が8世紀末に建設を始めて以来、歴史を通じてさまざまな建築様式を取り入れてきました。それぞれの時代ごとの特徴は以下の通りです。

カロリング朝ルネッサンス建築(8世紀末~9世紀初頭)

カール大帝は、ローマ帝国の伝統の復興と自身の権威を象徴するために「パラティーノ礼拝堂」を建設しました。ラヴェンナのサン・ヴィターレ大聖堂をモデルにし、ビザンチン建築から非常に影響を受けており、八角形の集中式平面と大理石を用いた内装が特徴的です。カロリング朝建築の傑作であり、ルネッサンス建築の特徴的な例と見なされています。*「カロリング朝ロマネスク様式」と書かれているものもあります。

ロマネスク様式(10~12世紀)

この時期、大聖堂は巡礼地としての役割が強化されました。巡礼者を迎えるための空間が拡張され、堅牢で荘厳な建築スタイルが採用されました。

ゴシック様式(14世紀~15世紀)

大聖堂が巡礼地としての重要性を増したことから、壮麗な装飾が施されました。特に、聖歌隊席(ガラスの礼拝堂)は壮大で、「アーヘンのガラスの家」とも称されています。

バロック様式(18世紀)

豪華な金箔装飾や絵画が内部空間に追加されました。この装飾は、大聖堂が神聖ローマ帝国の象徴としての役割を果たしていたことを反映しています。

世界遺産登録

1978年、アーヘン大聖堂は、その卓越した芸術性や建築技術、そして神聖ローマ帝国の歴史における中心的な重要性が評価され、ユネスコの世界遺産リストに登録されました。これは、世界遺産に登録された最初の12遺跡の1つであり、ドイツで初めて登録された世界遺産でもあります。
特に、八角形を中心とした独自の建築デザインや、ビザンティン様式と西欧の建築技術を融合した点が評価されています。

旧市庁舎(Rathaus)

カール大帝が建設した宮殿の一部であった王宮は、現在の旧市庁舎が建つ場所に存在していました。残念ながら王宮そのものは現存していませんが、カール大帝の時代(8世紀)に建設された「グラヌスの塔(Granusturm)」は、現在も旧市庁舎の東側にその姿を留めています。

グラヌスの塔

14世紀になると、王宮跡地の一部にゴシック様式の市庁舎(Rathaus)が建設されました。この市庁舎には、かつて戴冠式で使用された「皇帝の間(Kaisersaal)」があり、現在では大学教授のパーティーや学術イベント、公的な式典などに利用されています。皇帝の間は一般公開されており、訪問者はその荘厳な雰囲気を体感することができます。

また、ドイツでも有名なアーヘンのクリスマスマーケット(Weihnachtsmarkt)は、旧市庁舎前からアーヘン大聖堂にかけて開催され、所狭しとお店が並びます。その時期にしか味わえないグリューワインやキンダープンシュを楽しみながら、アーヘン大聖堂や旧市庁舎の美しい光景を堪能することができます。

エリーゼンブルネン

アーヘン大聖堂前にあるエリーゼンブルネンは、ローマ時代から温泉が湧き出ることで知られており、その治癒力が高く評価されていました。カール大帝の時代には、この地域に小さな教会があったとも言われ、中世には修道院が存在していたとされています。

1822年からエリーゼンブルネンの建設が始まり、古代の中世城壁(バルバロッサの壁)の遺跡を一部取り入れながら、新たな施設が作られました。1827年にはエリーゼンブルネンホールが完成し、現在では白い円柱のホールと、2つの温泉(手洗い用)が存在しています。

カール大帝とフランク王国

ここからは、アーヘン大聖堂と深い関わりのあるカール大帝について詳しくご紹介します。日本ではあまり馴染みのない人物かもしれませんが、「ヨーロッパの父」と称されるほど、欧州の歴史において欠かせない存在です。アーヘン大聖堂を訪れる際には、カール大帝の生涯や功績にも触れることで、その魅力をより深く感じていただけるはずです。

フランク王国

フランク王国は、現在の西ヨーロッパにあたる広大な地域を支配していた王国で、カール大帝によってその勢力を大きく広げました。もともとは小規模な領土から始まった王国でしたが、少しずつ領土を拡大し、カール大帝の治世には、フランス、ドイツ、イタリア北部、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、そしてスロベニアにまで及ぶ強大な国家となりました。

フランク王国のルーツをたどると、3~4世紀頃、古代ローマ人がライン川中流域に住むゲルマン人の一派を「フランク人」と呼んだことに由来します。フランク人はその高い戦闘能力を背景に、次第にローマ軍で兵士や将軍として地位を得ていき、最終的には独立した王国を築き上げました。

しかし、フランク人には分割相続の慣習があり、王の死後、その領土が息子たちに平等に分けられるため、相続争いが頻繁に発生しました。これにより、暗殺や幽閉といった争いが絶えず、王国は分裂の危機にさらされることが多々ありました。

そんな混乱の中、751年にピピン3世がフランク王国の国王として即位します。このピピン3世が、後に「カール大帝」として知られるカール1世のお父さんです。

大帝への道

8世紀、フランク王国のピピン3世(ピピン国王)が亡くなると、彼の2人の息子、カール1世(後のカール大帝)とカールマン1世が領土を分け合いました。しかし、カールマン1世が早々に亡くなったため、残ったカール1世が全領土を統治することとなりました。カール1世はその強さ、知性、そして人望によって領土を拡大し、次第にローマ皇帝すら無視できないほどの強大な力を持つようになりました。

そしてカール1世は、800年にローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」の称号を授けられ、神聖ローマ帝国の初代皇帝となりました(*)。これは、彼の権力がローマ教会によって正式に認められたことを意味します。そして、彼の支配下でフランク王国はヨーロッパの大国へと成長しました。

フランク王国
カール大帝が治めていた王国
神聖ローマ帝国
カール大帝がローマ教皇から皇帝の称号を授けられることによって成立した広域的な帝国

首都アーヘン

カール大帝は、温泉が湧き出て地理的にもフランク王国の中心に位置するアーヘンを大変気に入っていました。そして、頻繁にアーヘンに滞在するようになり、ここアーヘンで政治を行うようになりました。現代のように「首都」という明確な概念は存在しませんでしたが、アーヘンはフランク王国の政治の中心地として機能し、事実上の「首都」とも言える場所となったのです。

カール大帝が築いたヨーロッパの基盤

カール大帝の孫のシャルル2世(シャルル1世とも呼ばれます)は、フランク王国の西側を支配し、西フランク王国を統一。この王国が現代のフランスの基礎となりました。もう一人の孫、ルートヴィヒ2世は、バイエルンを支配し、東フランク王国を形成。これが現代のドイツへと繋がっていきます。

カール大帝の統治と遺産は、単なる王国の枠を超え、ヨーロッパの政治、宗教、文化の基礎を築き上げました。アーヘンは、その壮麗な歴史を今に伝える街であり、かつてのフランク王国の栄光を感じさせる重要な場所です。

アーヘン大聖堂への行き方

では、最後にアーヘン大聖堂への行き方を説明します。

アーヘンは小さな街なので、たいていはケルンやデュッセルドルフを訪れる際に観光の一環として立ち寄る程度ですが、ここでは、日本からアーヘンへのアクセス方法も含めて、行き方をご紹介します。

飛行機と電車

日本からアーヘンへの直行便はありません。そのため、フランクフルトやミュンヘンで乗り継ぎ、デュッセルドルフ空港まで行くルートが一般的です。デュッセルドルフ空港からはドイツ鉄道(Deutsche Bahn)の高速鉄道ICEを利用し、約1時間でアーヘンに到着します。

なお、以前は日本からデュッセルドルフまでの直行便がありましたが、現在は運休中です。ただし、将来的に復活する可能性もあるため、最新の情報を確認すると良いでしょう。

バスと徒歩

アーヘン大聖堂は街の中心部「旧市街」に位置しており、アーヘン中央駅(Hauptbahnhof)から徒歩約15分、バスなら約5分でアクセスできます。

中央駅を出て目の前の広場を超えるとバス停があり、信号を渡った側のバス停から以下の路線に乗車してください:31番、21番、350番、51番

降車は「Elisenbrunnen(エリーゼンブルネン)」で、バスを降りると目の前にエリーゼンブルネン公園が広がります。その向かいに、壮麗なアーヘン大聖堂がそびえ立っています。

アーヘンはどんな街?

おまけで、アーヘンについてちょこっとご説明します。

アーヘンは、オランダとベルギーの国境に位置する、ドイツ最西端の都市で、カール大帝にとても愛された街としても有名です。アーヘン大聖堂を中心とした中世の美しい街並みを楽しめるアーヘンは、一年中旅行客が訪れる観光地です。特にクリスマスマーケットは有名で、ドイツのクリスマスマーケットランキングで常にTOP10入りしています。人口25万人のうち5分の1をも学生が占める大学街でもあります。ドイツ国内でもトップクラスの工科大学RWTH(アーヘン工科大学)や技術系の企業が多数所在し、世界各国からの優秀な学生やエンジニアが集まる小さいながらもインターナショナルな街です。

まとめ

アーヘン大聖堂は、カール大帝が築いた政治と宗教の拠点であり、多くの皇帝の戴冠式が行われた神聖ローマ帝国の象徴的な存在です。ユネスコ世界遺産に登録されたこの壮麗な大聖堂は、訪れる人々に時代を超えた感動を与え続けています。温泉文化や歴史的な街並みと共に、アーヘンはカール大帝の遺産を今に伝える特別な場所として、多くの人々を魅了しています。

参考文献

Architektur und Entstehungsgeschichte – Aachener Dom
Karl der Große – Aachener Dom
Der Dom in Zahlen – Aachener Dom
www.aachen.de – Route Charlemagne
www.aachen.de – Dom
Rathaus – Route Charlemagne
Elisengarten – Wikipedia
Das-Rathaus_DE_web.pdf
Steinhart, duftend, lecker: Kulturgut Aachener Printen | National Geographic
フランク王国 – Wikipedia
アーヘン – Wikipedia
アーヘン大聖堂 – Wikipedia

文:レンガ

アーヘンでアパートを借りたい、小学校や幼稚園を探したい、滞在許可証申請や銀行口座開設など研究留学のサポートをして欲しい、など弊社では経験豊富なスタッフが、アーヘンへ研究留学 / 赴任する方のリロケーションサポートをしています。留学準備はぜひプロにお任せください。

PICKUP